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【ロングインタビュー・前編】永島俊/松井大輔に憧れ、イケイケだった10代の頃

■サッカーか野球か。二択の末にサッカーを選択


 サッカーを始めたのは小学校入学と同じタイミングでした。それまでは幼馴染と遊びで一緒にボールを蹴ることもあった中で、ちょうど小学校に進学する時に何かスポーツを始めたいと考えていました。サッカーと野球、どちらにするか。迷っていた僕は幼馴染の母親に「野球を始めます」と報告したところ、「野球部は小学校3年生にならないと入部できないから、1年生から入部できるサッカー部に入りなよ」と勧められました。それならばと、サッカー部への入部を決めた僕は入学前から小学校のサッカー部の練習に通い始めましたが、いざ学校が始まると、野球部には普通に1年生がいました。まんまとハメられたわけです(笑)。

 こうして本格的にサッカーを始めることになりました。ただチームの練習は土日だけ。平日は毎週木曜日に通っている小学校の体育館でフットサルをやっていたので、幼馴染の兄と一緒に平日の木曜日はフットサルをやっていました。

 野球をやることに未練がなかったわけではありません。普段から遊びで野球をやることもあるスポーツ少年だったので、野球が得意でもありました。イチロー選手や松井秀喜選手が右投げ左打ちなので、あえて二人のマネをして、自分も左打ちに変えて右でも左でも打てるようになりました。

 サッカーの練習は土日だけだったので、野球チームの練習に誘われることも多く、野球部の顧問の先生に勧誘されることも少なくありませんでした。子ども心に褒められることがうれしくて、全然野球部に行く気はないのですが、誘われたことを良いことに、つい父親に「野球部の練習に参加したら、野球部に誘われた」と報告したところ、父親に激怒されてしまいました。

 後にも先にも父親にはこれまでの人生で二回だけ怒られたことがあるのですが、その時がその内の一回でした。父親には「そんな中途半端な気持ちの奴は、サッカーも野球もやるんじゃない!」と叱られました。その日は「サッカーをやめろ」「やめたくない」。その押し問答が繰り返されて、最終的にはどう事が収まったのか、記憶はないのですが、父親にすごく怒られたことだけは覚えています。

 ちなみにもう一回は小学5年生の時です。ある試合でGKが不在の試合があり、代わりに僕がGKで出場すると上級生に「GKをやったほうがいいんじゃない?」と褒められました。そのことを父親に報告したところ、「中途半端なことをするな!」と怒られました。最初に怒られた時と同じパターンで、父親は中途半場なことをするのをひどく嫌っていました。もうそれ以来、怒られることはなくなりました。

■横河武蔵野ジュニアユースから鹿児島実業高校へ


 中学年代は横河武蔵野FCのジュニアユースでプレーしました。加入のきっかけは、小学生の時にお世話になっていたコーチの息子さんで僕のお兄さん的存在がいました。その方は横河のユースに在籍していたため、「横河は育成も良いし、レベルも高いから」とセレクションに誘われていました。僕はその方に憧れていたので、同じチームに行きたいと横河のセレクションを受けました。セレクションには小学校の同じチームから僕とキャプテンと幼馴染の3人で受験して、僕だけが合格しました。

 ほかの二人は場の空気に呑まれていた感がありました。セレクションのような場ではガツガツとプレーして何かの痕跡を残すことが大事だと思っているのですが、ほかの二人は遠慮していたような気がします。僕自身もセレクションでどんなプレーをしたのか、覚えていないのですが、当時の僕はイケイケでしたからね(笑)。ただ自分たちの代の横河は関東大会止まりで、全国大会には出場できませんでした。同じ代で有名な選手と言えば、森本貴幸選手(現・川崎フロンターレ)や吉本一謙選手(現・FC東京)で当時の彼らは僕たちの代で頭一つ抜けている選手でした。

 高校は鹿児島実業(以下、鹿実)に進学しました。そのきっかけは小学生の時の親友です。彼が途中で九州の宮崎に引っ越し・転校した際にボールに寄せ書きをしてボールをプレゼントしたのですが、僕はその寄せ書きに「また一緒に高校でサッカーをやろう」と書いていました。そして年月が過ぎ、中学3年の夏頃にその親友から連絡が来ました。「自分は横河かヴェルディのユースに行く」と彼に話すと、親友は「高校では一緒にプレーできないね」と残念がっていました。

 実は僕は寄せ書きの内容を忘れていたので(苦笑)、彼と話しながら「なぜ連絡が来たんだろう?」と不思議に思っていたのですが、そういうことだったんですね(笑)。そして僕は親友に「高校はどこへ行くの?」と聞いたところ、サッカーを教えてもらっているコーチが鹿実にルートがあるらしく、「鹿実に行くことになった」と聞きました。実は当時の僕は松井大輔選手(現・オドラ・オポーレ/ポーランド2部)が大好きで、本来はJリーグを見ることもないのに、松井選手が出る試合だけは見るぐらい好きでしたから、その母校である鹿実と聞くと、「え、マジで?」と黙ってはいられませんでした。

 その一方で親友の母親は僕と一緒に高校でプレーしてほしいとずっと思っていてくれていたようで、コーチの方に「東京に良い選手がいる」と話していたようです。「鹿実が興味を持っているから、夏合宿に参加しないか?」という誘いの連絡をしたかったため、親友は僕に連絡をくれたのですが、結局連絡を受けた一週間後には夏合宿に参加することになりました。

 参加した夏合宿では「中学時代の松井大輔に似ているね」とうまく乗せられて、「いま決めるならば即入学決定」と誘っていただいたので、親に相談もせず「入ります」と返答しました。事後報告で親には電話で鹿実行きを伝えましたが、やりたいようにやらせてくれました。後々聞いたらさすがに驚いていたようですが、電話で伝えた時は僕がやりたいことをやれるように驚きを感じているようには見えないようにしてくれていたようです。さすがに鹿実の丸刈りには抵抗はありましたが、「松井選手の母校に行ける。ラッキー」ぐらいの感覚しかありませんでした。

■恩師・松澤先生とのエピソード


 ただ1日で鹿実に入ったことを後悔しました(苦笑)。まずは丸刈りがイヤだったので、鹿児島入りする前に東京の美容院で“オシャレ丸刈り”にしていたのですが、早速最初のサッカー部の集まりで「伸びているね」と指摘されました。その瞬間、バリカンで普通の丸刈りになりました。そして入部からまず一週間は“挨拶練習”のみ。ボールにもまったく触れず、放課後にその挨拶練習を22時頃まで一週間続けていると、その時点で10人ぐらいが部活をやめていきました。1年生は白ブリーフでないとダメなど(笑)、いろいろな規制もありましたね。

 いざ練習が始まっても、1年生のチームではレギュラーを張れたとしても、トップチームにはなかなか絡めませんでした。その一方で1年生だけで出場する大会では、中盤がダイヤモンド型の[4-4-2]を採用するチームの中で、僕のポジションは2トップの一角。当時の身長は175cmぐらいで前線で勝手にプレーしているタイプの選手でした。一週間の挨拶練習が終わると、サッカー推薦で入部してきた選手など、いろいろな立場の選手と混じって、実力を見られる紅白戦が行われました。

 自分のチームは鹿実と言えば、ロングボールを蹴るチームというイメージが強く、実際に鹿実では技術練習も多く、ボールをつなぐトレーニングも行なっているのですが、どうしても凝り固まった鹿実のイメージがあるから蹴ってしまうんです。でもマイボールになると、僕はボールをキープしたりするので、周りが文句を言い始めるんです。

「鹿実に東京もんはいらねぇんだよ、帰れ」。そう言われた自分は頭にきてしまい、「田舎もんは黙ってろ」みたいなことを言い返す困った奴でした(苦笑)。ある時は先輩への悪口を言ってもいないのに、言ったことにされて、先輩に告げ口をされることもありました。

「もう鹿児島の連中とは絶対に仲良くしない。ココから3年間、オレは標準語しか話さない!」と覚悟を決めた日もありましたね(笑)。結局、部活以外で仲良くしているチームメートは3、4人程度でした。さらに困ったことに当時の僕は「サッカーはセンスだから」とタイム走に入ることも少なかったです。「鹿実だから走れるんでしょ?」と今でもよく言われるのですが、実は走れません(苦笑)。
 
 でも松澤先生(松澤隆司総監督)は僕のことを買ってくれていて、厳しく指導してくださいました。例えば遠征前日の練習で気が抜けているプレーが多いと、遠征メンバーには入れず、トイレの前でミニゲームしかできないEチームまで落とされることもありました。そこで悔しい思いをして、頑張っていることを認められれば、また上のチームに戻してくれました。でも高校時代は最後まで波がありましたし、いろいろなことを舐めていましたね。公式戦には出られるけど、トップチームで出場した試合でボールを追わずにメンバーから外れて、また頑張ってメンバーに戻ってと、その繰り返しでした。

 僕たちの代は新人戦、インターハイ(高校総体)、高校選手権といった“三大大会”での最高成績は新人戦での九州大会出場どまり。1年生の時は選手権優勝、2年生の時の選手権準優勝でしたが、僕たちの代はいわゆる“谷間の世代”でした。

 そして大学のことはこれまであまり皆さんに話したことなかったのですが、鹿実卒業後は将来的にJリーガーになりたかったので、松澤先生とプロ選手に通ずる大学に行こうと話していました。その過程である大学へ入学が決まっていたのですが、そこは寮生活と聞いていたため、躊躇する自分がいました。今考えると、どうしようもない奴なのですが、4人部屋の寮生活であることも引っかかっていたことから、松澤先生に「高校では親元を離れて親に散々心配をかけてきたので、大学は実家から通える大学で良いです」と相談しました。

 「じゃあ、お前行きたい学校を昼までに決めてこい」と朝の時間帯での相談で言われたので、すぐに高校のコンピューター室に駆け込んで、行きたい大学の検索を始めました。検索条件は「実家から通える距離にある大学」「汚れるのはもう嫌なので、人工芝のサッカーグラウンドがある大学」「関東大学リーグ2部以上」。そしてこの条件にマッチした大学が埼玉県川越市にある尚美学園大学でした。

 そこで僕は何も考えずに松澤先生へ「ココに行きたいです」と話した結果、松澤先生が大学側に電話で連絡をしてくれました。こうして尚美学園大学への入学が決まったんです。(後編へ続く)


【プロフィール】
永島 俊(ながしま・しゅん)
1988年5月9日生まれ、29歳。東京都出身。180cm/72kg。横河武蔵野FCジュニアユース→鹿児島実業高校→尚美学園大学を経て、フットサル転向後は府中アスレティックFCサテライト→府中アスレティックFC→ペスカドーラ町田→府中を経て、今季バルドラール浦安に完全移籍で加入。ポジションはALA。

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※お支払いはクレジットカード、銀行振込での現金支払いになります。

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